サクラクレパス100年 世界に誇る財産を語る
- 政治・経済
- 2021年7月19日
200年、300年先を見据える
大正10年に日本クレイヨン商会を創立し、桜クレイヨンを製造したのが「サクラクレパス」の始まりである。それから100年-。
貞一氏は祖父と父親の後を継ぎ昭和56年に社長、平成26年に会長に就任した。
「ようやく100年、ここまできたかぁ、という思いです。それも通過点。200年先、300年先に向けてどういう会社であるべきか、どうすべきか-は常に頭の中にあります」
慶応大を卒業後3年間、貞一氏は文具メーカーのコクヨに修行に出た。
「ウチに入るなら一度はよその会社に勤めてから-というのが父の方針。私も、何の抵抗もなかったですね」
コクヨでは希望して人事や勤労厚生課の仕事に就いた。当時、サクラでは組合問題が起こり、昭和42年3月にはストライキまで起きていた。「その点、コクヨさんはしっかりと対応されてましたから。会社と従業員の関係について勉強できた。それはサクラでも大いに役に立ちました。当然、コクヨさんとウチとは違う。その〝違い〟は何か、どう違うのかを判断できることは、私の大きな財産になりました」
よその釜の飯-一度は食べてみるものである。
800点を超す絵画
サクラクレパスには世界に誇る財産がある。それが800点を超す絵画と展示会場の「サクラアートミュージアム」。そして収蔵庫を独自で持っていること。ところが、この話をすると貞一会長は少し照れくさそうな表情になった。
「いや、実は当初はそんな知識もなく、絵画の価値も分かっていなかったんですよ。作家が誰なのか、いつ描かれたものなのかも分からず、工場の2階や倉庫に放っぽらかしてました。その絵画をウチの〝財産〟にしてくれたのが清水さんなんです」
サクラアートミュージアムの清水靖子主任学芸員。この企画でも登場していただいた美術の先生である。
「画材メーカーとあろう者が、絵の具のボロボロになった絵画を飾って恥ずかしいと思わないんですか」と叱られたという。「ミュージアムはときどき貸しギャラリーにしたらもうかるんじゃないか」と提案したら「品が落ちます」と一蹴された。「わたしは気が弱いもんですから」と会長は笑って肩をすくめた。
清水先生の要求は厳しいものだった。
「収蔵庫は例え周りが火事なっても2時間は室温を20度に保てるような造りに」「傷んだ絵画はすぐに修復」「収蔵前にすべての作品を燻蒸(くんじょう)し滅菌すること」。火事に強い収蔵庫までは一気に用意できなかったものの、総額2000万円以上の経費をかけて完成した。
「世界中の同業を訪ねましたが、このような収蔵庫を持っている会社はありません。コレクション800点のうち350点は巨匠たちが描いたクレパス画。クレパスを売っている会社の誇りだと思っています」
そして100周年を翌年に控えた令和2年10月、いよいよ火に囲まれても室温が変わらない新しい収蔵庫が新工場に併設された。
そう、サクラクレパスは200年、300年先を見据えている。(田所龍一)
アートミュージアムの立役者
「私と二人三脚で走っていただけますか。それなら入社します」
30年前、社長だった貞一氏から「アートミュージアム」の学芸員に誘われたとき、清水靖子さんはこう答えたという。「生意気な女でしょ。でも本気だったの。社長とお会いしたとき、〝あぁ、わたしはこの会社で何かを成し遂げるんだ〟ってピーンときたの」
東京の女子美術大学を卒業してから3年間、イタリア留学。帰国後も個展を開くなど画家として活動していた清水さんは30歳のとき突然、絵筆を置いた。「お嬢さま気分で絵を描いていても生活できない-とやっと悟ったの」
そして美術館で絵画のテクニックを伝える学芸員を目指した。ただ、資格を取れたのは30代半ば。なかなか仕事は決まらなかった。
そこで千葉大大学院の門をたたいた。ところが、大学側は「35歳の院生なんて取れない」という。清水さんは啖呵(たんか)を切った。
「これからの時代は『美術館教育』が大事になる。私は美術の先生じゃなく、美術館の先生になるんです。年齢が問題というのなら、トップの成績で合格してみせます。受験させてください!」。そして有言実行。今につながる。
なんという熱血女史だろう。「彼女もウチの財産です」と貞一氏は小声で教えてくれた。
産経新聞社より転用
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