元ヤクルト・鈴木康二朗さん、2019年に死去 70歳 球団初Vに貢献&王貞治に通算756号本塁打被弾「おれは逃げなかった」
- スポーツ
- 2023年2月13日
元ヤクルト、近鉄投手の鈴木康二朗(すずき・やすじろう)さんが、肺炎のため、2019年11月19日に福島市内の病院で死去していたことが12日、分かった。70歳だった。シンカーを武器に、1978年に13勝3敗で最高勝率投手(・813)となり、ヤクルトの球団史上初となるリーグ優勝、日本一に貢献。王貞治(現ソフトバンク球団会長)に世界新記録となる通算756号本塁打を打たれた、多くの野球ファンの記憶にも残る名投手だった。
屈辱の一発を糧にした名投手が、静かに天国へ旅立った。娘の前川麻由さん(43)によると、ヤクルト、近鉄で活躍した鈴木さんは現役引退後、故郷の北茨城市でアパレル会社や廃棄処理会社で勤務。60歳で定年退職した後に脳梗塞を患い、福島市内の病院で療養していた。2019年11月19日、肺炎のため死去。遺族の意向もあり、公表することになった。
右投げの鈴木さんは茨城県出身。同県立の磯原高、日本鉱業日立を経て1973年にドラフト5位でヤクルト入団。189センチの長身から投げ下ろす直球とシンカーを武器に活躍した。
背番号21を付けた77年に14勝(9敗)を挙げ、松岡弘、安田猛(故人)と先発三本柱を形成。78年には13勝3敗で最高勝率投手(・813、当時はセ・リーグの表彰対象外)となり、ヤクルトを球団初のセ・リーグ優勝、日本一に導いた。眼鏡をかけて投げる姿も印象的で、チームメートから「ジャンボ」と呼ばれて愛された。
鈴木さんを一躍、時の人にしたのが77年9月3日の巨人戦(後楽園)だ。三回1死、王貞治に決め球のシンカーを右越えに運ばれ、世界新記録となる通算756号本塁打を浴びた。ハンク・アーロンの記録を上回る一発を放ち万歳してベースを回る王と、悔しがる鈴木さんの映像は、昭和の名場面として野球ファンに語り継がれている。
当時、勝負を避ける投手が多かった中、鈴木さんは真っ向勝負を挑んだ。試合後には「756号を打たせてやった鈴木、と書いて」と話し、不名誉な投手に米コンチネンタル航空から贈呈される予定だったサイパン旅行を断った逸話もある。756号を被弾した投手として取り上げられることが多かったが、娘の前川さんは「とにかく記憶に残っているのは『おれは逃げなかった』『今後は、王さんに恥ずかしくないように生きていく』という言葉です」と振り返る。
その言葉通り、鈴木さんは記録をつくられた翌78年にヤクルトの球団初となるリーグ優勝、日本一に貢献。83年に近鉄に移籍した後は救援で活躍し、84、85年には最多セーブを記録した。12年には夕刊フジの取材に「打たれて良かった。これをきっかけに、燃えて成績は上がったわけだから。
王さんには『ありがとうございました』という気持ち」と語っていた。 王の引き立て役で終わらず反骨心を胸に活躍した鈴木さん。誇り高き名投手が、天に召された。
■鈴木 康二朗(すずき・やすじろう)1949(昭和24)年4月18日生まれ。茨城県出身。磯原高(現磯原郷英高)から日本鉱業日立を経て、1973年にドラフト5位でヤクルト入団。75年に1軍デビュー。77年には巨人・王貞治の世界新記録(当時)となる756号本塁打を被弾した。78年には13勝3敗で最高勝率投手に輝き、ヤクルト初のセ・リーグ優勝、日本一に貢献。83年の近鉄移籍後は抑えで活躍し84、85年に最多セーブ。86年のプロ野球引退後も社会人軟式でプレーし、茨城県代表として95年の国体に登板した。189センチ、80キロ。右投げ右打ち。
サンケイスポーツより転用
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